2017年10月11日水曜日

井筒俊彦

ユリノキ黄葉
「朦朧体」写真について、
哲学者井筒俊彦の、
論考「コスモスとアンチコスモス ・事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」に、
視点の根拠を見出すことができたと書いたら、
それは実際おこがましいのだが、
ひとつの存在する理由として挙げるのもよい。

もともとは空海の「般若心経秘鍵」の中に、
華厳経の「事事無礙法界」の意味を調べているうちに、
いもづるって、
わき道にそれたからなのだが。

仏教哲学の、「事事無礙法界」は、
現象界の一切の事象が互いに作用し合い、
融即していることをいうそうだ。
法界とは真理の境地をいうそうだ。

いもづるってさらに、
融即とは、融即律かもしれぬ。
別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理。
仏蘭西のレヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)の言葉だ。

井筒俊彦の「華厳経」について語る部分に、
共鳴した。
東洋哲学と東洋美術、
特に山水画の気韻と呼ぶものは、
わたくしの「朦朧写真」と、関連しているように思う。
老荘ーーー山水ーーー山水思想ーーー仏教と、
東洋を円環する何かの気配を。

 事物を事物として成立させる、
 相互間の境界線あるいは限界線--存在の「畛」(へだて、境界)的枠組み--を
 取りはずして事物を見るということを、
 古来、東洋の哲人たちは知っていた。
 東洋的思惟形態の一つの重要な特徴だ。

 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
 ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、
 あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
 ということは、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
 限りなく細分されていた存在の差別相が、
 一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
 この境位が真に覚知された時、
 禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。

井筒俊彦は、イスラム教の「アッラー」とは
仏教でいう「真如」と同じだと考えていたそうだ。











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