2017年9月3日日曜日

「ドゥイノの悲歌」


此の朝、独逸文学者で作家の古井由吉の「詩への小路」(2005)を読む。
此の作家の文体は、読みながら同時に、思索を誘う速度だ。
独逸詩人をめぐるエッセイだが、中でも、
Rainer Maria Rilkeの難詩「ドゥイノの悲歌」の翻訳を、
緊張感をもって読むことのできた貴重な朝になった。

天使への呼びかけで始まるこの作品は、
まさに天使、見えない世界をを希求する詩人の独語ではあるが、
その天使は、実在しているのだ。
そしてリルケ自身の立つ位置もまた、素朴な人間ではない、
とだけ書こう。
正直、わからない。
但し、
眼に見えない世界の秩序を俯瞰し、
媒介する天使存在の実在を直感した、
ことは理解した。
「ドゥイノの悲歌」について書いた手紙を堀辰雄が翻訳している(全集第5卷)。
うすぼんやりした輪郭がつかめる。

 我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 それらのものは、嘗て我々の祖先たちのよき話相手であつたやうに、我々の不幸や喜びによく通じてゐます。その故に、この世のすべてのものを汚したり、惡くしたりしてはならない、そして我々と同じな、それらの果敢なき性さがゆゑに、それらの現象なり、事物なりを、もつともつと新しい理解をもつて把握し、それらのものを變化せしめなければならない。

 變化せしめる? さうです、それが我々の義務だからです。すなはち、それらの脆弱な、假初の、地上的なものを、その本質が我々のうちに「見えざるもの」となつて蘇つてくるほど、深く、切なく、熱烈に、我々の心に刻すること。我々は「見えざるもの」の蜜蜂です。我々は「見えるもの」の蜜を夢中になつて漁つて、それを「見えざるもの」の大きな黄金の巣のなかへ蓄へるのです。

 「悲歌」は、我々に愛せられてゐる、目に見え、手で觸れられる諸々の事物を、我々に自然に具つてゐるところの、目に見えざる動搖と昂奮と――それは宇宙の振動圈のなかに新しい振幅を導き入れるものです――に間斷なく置き換へることに全力を注いだ作品です。

 死は、我々の方を向いてをらず、またそれを我々が照らしてをらぬ生の一面であります。かかる二つの區切られてゐない領域のなかに住まつてゐて、その兩方のものから限りなく養はれてゐる我々の實存を、我々はもつともはつきりと認識するやうに努力しなければなりません。

 人生の本當の姿はその二つの領域に相亙つてをり、又、もつとも大きく循環する血はその兩方を流れてゐるのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に「天使たち」――我々を凌駕するものたち――の住まつてゐる、大きな統一があるばかりなのです。そして今や、かうしてそのより大きな半分をつけ加へられ、ここにはじめて完全無缺なものとなつた此の世において、愛の問題が前面に出てまゐるのです。

 この世の目に見え、手で觸れることのできる事物を、より廣い周圍、もつとも廣い周圍のなかへ導き入れるといつても、なにも基督教的な意味ではありません、(それから私はいつも熱心に身を遠ざけてゐます、)そしてそれは純粹に地上的な、深く地上的な、聖らかに地上的な意識をもつてであります。それはその蔭が地上を暗くしてゐる來世の中なのではありません、それは或る全きもの、一個の全體の中なのであります。我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 我々には、それらの追憶(それだけでは何でもないもので、誇るに足らないものでせう)のみならず、それらの人間的で、かつ「家神的ラーリツシユ」(家の神といふ意味での)な價値を保存するといふ責任があるのです。この地上のものは、我々の裡で、見えざるものとなる以外には、なんらの逃路をもつてゐません。我々の存在の一部をもつて「見えざるもの」に協力してゐる、(少くとも)見かけだけはそのごとくに見える、そして我々の生きてゐるかぎり、我々の持分である「見えざるもの」を増加せしめなければならないところの、我々の裡で。我々の裡でのみ、目に見えるものから、目に見えないもの――見えたり觸れられたりしてゐたことと――そのやうな我々はもう何んの關係もないもの――への内的な、永續的な變化が行はれるのです。

 「悲歌」の天使は基督教的天國の天使とはなんの關係もありません。(むしろイスラム教の天使の形姿に近いと云へるかも知れません。)……「悲歌」の天使は、見えるものから見えないものへの變化(それこそ我々の仕事です)が既に實現せられてゐるやうに見えるところの被造物なのです。「悲歌」の天使にとつては、過ぎし世の塔とか、宮殿とかは、ずつと昔から既に見えなくなつてゐるが故に、「實存」してゐるのです、そしていま我々の世界に立つてゐる塔とか橋などは、我々にとつてこそ實體のごとく存續してゐるけれども、天使にとつては既に見えざるものとなつてゐるのです。「悲歌」の天使は、見えざるもののなかにより高次の現實を認めることを保證してくれる存在なのであります。――その故にこそ、いまだに見えるものと關係してゐる我々、戀するものであつたり、或ひは變化するものであつたりする我々にとつては、天使は「恐ろしいもの」なのであります。

 宇宙のあらゆるものは「見えざるもの」のなかへ、かれらの最も新しい、最も深い現實のなかへのやうに、飛び込んでゆきます。二三の星は直接に上昇して、天使の窮みない意識のなかへ消え失せます。










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