2017年8月25日金曜日

邪宗門

桂黄葉
佐藤伸宏「日本近代象徴詩の研究」の、
「象徴詩の転回---「邪宗門」論」を読む。
詩集「邪宗門」冒頭の、

   情趣の限りなき振動のうちに、
   幽かなる心の欷歔(ききょ)をたずねる。

白秋自身のいう「情趣」は、
「イメージ」と置き換えるべきかもしれない、と思った。
そうすれば、白秋のいう「象徴」が少しは理解できると思うのだが.
上田敏、薄田泣菫、蒲原有明らを引き継ぎ、
象徴詩を目指した北原白秋の詩集「邪宗門」の、
いったいどこが、仏蘭西からもたらされた象徴詩を追求したものか、
を感じ取り、説明することはやはり難しい。

白秋の特質を木下杢太郎は、

 「邪宗門」の詩は、主として暗示(サジェッション)である。
 仏蘭西印象画派、新印象派の手法のように、
 単に、光線の振動、原色の配整であり、
 簡単な心象および感情の配列である。

 作者は、自然からその好む元素を選び取って、
 詩章に織って、開展する。
 しかしただおぼろげなるものを暗示するのみである。
 
 美しい動詞によりて綴られた
 美しき名詞の列である。
 これらが、相似る情調を惹起するように選ばれている。

と書いているが、
この書評が、白秋の象徴詩へのもっとも的確な指摘らしい。

ところが、
三好達治は辛辣だ。

 詩はひたすら横すべる。
 つじつまを合わせるように詩語を置き換え積み替えしている。
 さまざまな刺激語で、脚光を浴びせようとしているが、
 どこまでいっても同じ平面のうえをうろついている。
 そうして後は、徒労と焦燥感が残される。

と書き、羅列、併置、単調さへの、
当時から現代にいたる、白秋の象徴詩への批判の意見を代表しているそうだ。

だが、佐藤が明確に指摘するのは、
三好達治が否定したことこそが、
白秋の確立しようとした象徴詩の方法ではないか、と推論する。

基底とする気分、情趣を置き、
そのうえを、いくつもの幻想、想念、イメージが、
塊として、併置、羅列、連続していくこと。
その塊の間には、論理の一貫性、脈絡を介在させないこと。
この方法によって、
「邪宗門」冒頭の、
「詩の生命は暗示にして、単なる事象の説明にはあらず」が実現し、
ひとつの統一されたイメージの世界が出現する。
脈絡は「感覚」であり、
「論理」には置かない。

わずかに、
白秋の詩集「邪宗門」は抒情詩集ではなく、
上田敏にはじまる、
あるいは仏蘭西の象徴文学概念による
詩作の試みだということが、
浮かび上がっきたのだが。

では白秋の象徴詩のもたらした「暗示」「作用」は、改めて何か。
それは次回。















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