2017年8月26日土曜日

邪宗門その2


芭蕉は最大の象徴詩人、と野口米次郎が言ったので、
「象徴」にこだわりを続けているのだが。
最初に戻って、概念を明瞭にしてみる。

 抽象的な概念を、より具体的な事物や形によって表現すること。その表現に用いられたもの。

 記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないもの。

 直接的に表しにくい抽象的な観念を想像力を媒介にして暗示的に表現する手法。

とある。

次に「象徴派」という訳語をあてたのは上田敏で、
明治36年の雑誌「明星」の上でだ。
以後、斎藤茂吉が「象徴といふ語」というエッセイを書いていたりする。
標示派、記号派 表象主義、表徴派などという訳語もあった。
象徴は、上田敏から始まった。

では仏蘭西象徴詩の象徴とは何か。
ステファヌ・マラルメの言葉は次の通り。

 対象を名指すことは、
 少しづつ謎を解いていく幸福から成り立つ詩の喜びの
 4分の3を奪う。
 暗示することに意味がある。
 この神秘を使いこなすことで、
 象徴がつくられる。

しかし、この言葉はどこか奇妙だ。
象徴を説明しているとはいえない。
マラルメが詩作のうえで志向したのは、

 詩的言語によって純粋観念notion purを喚起すること。

という言葉のほうが、象徴への直截で納得できる説明になる。
現実的言葉との関係を遮断、拒絶することで、
事物の超感性的な原形イデーというものを発出させること。
そのための手法が、暗示なのだ。
情趣ではなく、観念、形而上的な原型を指すに違いない。

さて上田敏「海潮音」。
含まれる十四篇の、いわゆる象徴詩に、
黄昏、落日の光景が描かれていることに気づいたのは
「日本近代象徴詩の研究」の佐藤伸宏。
秋の凋落、落日という主題は、
十九世紀末の世紀末の仏蘭西
象徴詩を代表するものだったらしい。

だとすれば、
飛躍はするが、
上田敏に限りなく影響を受けた北原白秋の「邪宗門」は、
秋の落日の主題を、
春の黄昏時間に、
置き換えたものだと考えられないか。
百篇の詩を通して、
一冊の詩集は、
 
 暮れなやむ晩春の室の内……

という主題を、
あるいは場所論を、
ひとつの象徴にまで、
昇華させた詩の表現、とはいえまいか。
それほどの大きな、驚くべき仕事ではなかったか。











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