2017年8月22日火曜日

葛原妙子

Rose
たそがれどきのわずかな時間に垣間見るのは、
そのひかりのむこうにあるものだ。
物象の奥処の、形のない、形而上の、イデアの、と、
さまざまに表現されているものへの、あくがれ。
三木露風は「黄昏の詩想」と呼んだ。
そこに永遠の世界への幻を、垣間見る。

葛原妙子の第一歌集「橙黄」(昭和25)を読む。

 橙黄色の
 花筒仄明かる
 君子蘭
 昏れながき微光を
 背後に持てり

は、夕暮れのたゆたう時間の、落ち逝く西日が弱弱しく差す室内で、
植物の吐息で薄潤んだ空気が靄がかる温室で、
蘭の花の周囲が、仄明るく見え続ける、という意味かもしれない。
昏れてなお、光を放ち続けるうすぼんやりした花の輪郭のアウラを、
密かに観照しているのかもしれない。
「黄昏の室内」は、
詩史に繰り返し登場するイメージの、バリエーションだろう。
イメージのもとは白秋かもしれない。
だから、幸福で永遠なるものへの、暗喩が漂っている。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「色彩論」の、
生きものやモノの背後にある光、エーテルを発見するくだり、を思い起こす。
夕暮れの、薄暗い食堂。
逆光の中の女給が去ったあとに、
ひとがたに残る光の塊。
それがエーテル。

植物は天体とかかわりで、動いている。
植物は恒に天体の力を、感じ取っている。
宇宙の向こうから、
たとえば赤色が働きかけるとき、
地上に到達するまでに一度、
レムニスカート曲線を描くそうだ。
それは宇宙の調和の力、美だ。

天体の力を、
中世まで、「エーテル」と言い、認識されていた。
エーテルの力を受けて、
植物は花々を形成する。
葛原のいう微光とはエーテルかもしれない。
モノに纏い、モノを包む、生命体の宇宙の力、だ。











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