2017年8月19日土曜日

上田三四二

Morning glory

 人生より長らえる墓石は、それ自身一個の生の象徴である。
 詩は墓石のようなものでなければならぬ。
 感情はいったん死に、象徴として甦る。
  すべての詩は象徴を目指す、といわねばならぬ。

明治時代の詩歌の美しい言葉の源へ、視野を広げつつも、
象徴とは何か---という長い道のりの、緒に着いたばかりのわたくし。
マラルメや上田敏、薄田泣菫、蒲原有明、北原白秋の仕事を正視する日々の一方で、
歌人上田三四二の詩論「詩的思考の方法----あるいは隠喩論」(1965)を読む。
知らず象徴作用に到達する一論だった。
幾つかを抜き出したい。
短い中に、よい言葉がたくさんある。

 詩の跳躍は、論理の絶えたところからはじまる。
 推論のゆきづまった地点でなされる。
 詩の言葉が極端に少ないのは、跳躍に息を詰まねばならぬからだ。

 詩人の飛躍は、比喩によってなされる。
 類推と暗示と象徴の、言葉の曖昧さ複雑さに由来する語法の混乱を盾とする。

そして、

 言葉は、語源につながることによって、
 というよりも、語源を見通す歴史の厚い層の中に、
 人間の込めて来た、無数の感情の彩りを感得することで、
 はじめて詩語たりうる。
 詩の思考の跳躍とは、
 この無数の感情の糸を、いくつか、そして新しく結びなおすことだ。
 結びなおすことで、未来への予言を盗みとる。

 芭蕉の、藤そのものが心に沁むのは、
 白氏文集が、後撰集が、徒然草が彼の血に溶けていたからだ。
 東方の、ひとびとの感情の凝集としての藤の花が、
 彼の口を借りて表現にいたったのだ。

 ふたつのあいだには、
 おそろしいほどの断絶があり、
 断絶を飛び越えて、感動がモノに放射されるとき、
 モノは感動そのものへ、転化する。
 感動からモノへ。
 この転移のうちに、感情の比喩は完成する。
 感情の比喩は、隠喩である。

 隠喩metaphoreと移調transpositionは同じだ。
 もと一箇所から他所に移し動かす意である。
 感動はモノだと知るとき、隠喩は遂げられ、
 詩になる。

 詩による思考とは、言葉によるモノの発見である。
 モノのシンボル化をもってする感情の開発にほかならない。

 詩が、「現実の強化」であり、
 詩的思考の方法たる隠喩の指し示す新たな発見である。

 現実の強化とは、
 象徴のうえに象徴を重ね、
 象徴の次元を高めることによって、
 その体系を精妙にすることである。
 生きるとは、象徴を織る、ことにほかならない。

 茂吉は、写生のゆきつく果てが象徴だと信じていた。
 茂 吉の写生を祖述し、繊細微妙な表現に、佐藤佐太郎は到達した。
 白秋は、幽玄の澄むところに、象徴の絶対境を見た。

 塚本邦雄は、
 アララギには人間学と自然学があっても、美学がない、
 と凹所を衝いた。
 詩の機能をもういちど験そうとした。

 詩の手法においては、隠喩の強化が。
 詩人の要請としては、人間的共感の回復が、
 相互を媒介しながら、詩に結晶させることである。
 このとき言葉は、
 神話時代からの強烈な感情の負荷の記憶を重ねて、
 未知の、論理の及ばない、新しい認識を開いてゆく。










0 件のコメント:

コメントを投稿