2017年7月16日日曜日

詩集「固い卵」

木漏れ日の迷い子

詩歌俳の浅瀬を歩き、
断片を書き続けている。
書き続けることで、
わたくしの中に蓄積していく果、を感じている。

先ごろ開かれた明治古典会七夕市で
詩人北園克衛の詩集「固い卵」の原稿があった。
原稿がこぎれいに残っていたことに違和感があった。
1940年ごろのものだ。

原稿用紙に青の万年筆で書かれ、
奥付まで書き、紐で綴じている。
級数、書体の指定に赤を入れている。
北園自身による印刷指定だった。

北園は グラフィック、タイポ、編集の仕事をしていた。
死ぬ直前、75歳まで、
隔月刊の百貨店のPR誌「机」を作り続けていたらしい。
編集者だったわたくしに、親近感を抱かせた。

紙媒体の宇宙を、編集者は知るものだ。
言葉、日本語、書体、写真、デザイン、構図、紙質、色彩。
それらを組み合わせることで生まれるものがある。
北園の端正な原稿づくりは、編集者であったからでもあろう。
今でいうリトルプレスの、さまざまなリトルプレスの編集者だった。

詩論集「二角形の詩論」(1987)で、北園は書く。

 わたしが詩の実作者として最も誠実に立ち向かっているものは、
 瞬間に消えていく幻影だか観念だかも定かではない「ある何か」を、
 極度にそのままの状態で記録していくことである。

 つじつまの合わないものであっても、
 それには、そうでなければならない理由があったのである。

 詩は、工芸のように、
 材料を選び、設計を洗練し、熟練した技術によって、
 周到につくられなければならない。

 言葉の重さ、色感、リズム、形態について検討し、
 できるだけ広い範囲におよぶように、 
 蒐集整理する。

 わずかな言葉を完全に使用することで、
 一般の、雑多な言葉を自由に使う詩とは異なる、 
 高度な結晶をつくろうと努力する。

 きわめてわずかな言葉によって作られたイメエジを、
 絶えず変化させ、打消していくように、
 助詞、助動詞が操作される。

 詩はなんだかわからないところの何かである。

 散文では表現できないような「何か」があり、
 それは人間が本能的に求めているものだ。

 「芸術する方法と技術」をマスターすることだ。

 わたしは、すべての詩人にまず、原稿をつくること。
 そして印刷することをすすめたい。

30冊の詩集、論集はかような強い意図のもとにつくられた。驚異だ。














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