2017年6月18日日曜日

與へられる聲

桂並木

「擬人法」はギリシャ詩学では、活喩法といい、Prosopopoeiaとつづる。
神々を天上から降ろし、
死者をよみがえらせ、
国に声を与えるための修辞。

まずは、このことを念頭に置きたい。

日本の詩歌俳での擬人法は、
人間以外の生命体に、人間であるかのような表現をさせること、だそうだ。
主役とてし意思を持つのが人間以外で、
明瞭な意思と行動があるかのように描いて、自然の季節感、循環する季節感を表現する。

 底のない桶こけ歩行(ありく)野分哉    
 こもり居て雨うたがふや蝸牛
 唐きびのおどろき安し秋の風    与謝蕪村
 チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子
 海に出て木枯帰るところなし    山口誓子

歌人永田和宏はしかし、「作歌のヒント」の中で、
こと擬人法に関しては、ほとんどが失敗する、と書いている。
その理由は、見立て、思い入れが稚拙だからだそうだ。
歌人土屋文明もまた、初歩低級、と切り捨てているようだ。
俳人の飯田龍太もまた、「擬人法をやすやすとすることが技巧の弊害になる」と書き、
作法に無意識的すぎることをいさめている。

だが、上記の句群は、共感を得られているから残っているのであるから、
擬人法を否定するわけにはいかない。
擬人法の根幹には、アニミズムという心性があるからだ。
歌人馬場あき子は、
「人になずらえる場面では、対象に、肉体が与えられることで、実感が濃くなる」と書く。

最初に戻れば、「死者をよみがえらせ、国に声を与えるための修辞」であるなら、
物言わぬ物たちの意思と行為に、声が与えられる、ことを意味する。
詩歌俳は、物言わぬ物たちへ、声を与える行為でもある。












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