2017年5月8日月曜日

古代言語

芍 薬



詩人の八木幹夫が、
唐突に「古代言語論へ」と話したのを、連休最終日に読む。
言い知れない感情が湧き上がった。
ともかくも表現の場所があろうとなかろうと、
言葉を扱い続けるものは、
古い言葉、言葉の古層へと、
いづれは遡らねばならない。
隠喩ではなく、直裁にだ。
古代の言葉とつながっているという自覚は、
今生の内的な充実を生む。
言葉を再生する試みでもある。


折口信夫にそのような論考「古代中世言語論」(全集12所収)がある。
注意深く読む必要がある。抜書する。


 記紀に、象嵌の様に、古詞章が入れられてゐるといふ事は、何を意味するか。結論だけを、簡単に出すと、即ち其は非常に重大なる箇所であつて、其を失つたら、神乃至は宮廷の神聖に対して、申訣がたゝぬといふ気持があつたからの事であらう。この暗黙の制約がもしなかつたら、古事記などは、もつと漢文流にゆけた筈であつた。


 古くから伝承してゐる詞句には、国のすぴりっとが宿つてゐる――国の威力が籠つてゐると信じた。だから其国の重要な位置にある人は、必ず之を受け伝へなければ、威力がなくなつて了ふ。その為に、どうしても、この古詞章は覚えなければならなかつたのだ。かうして伝承されたものがことわざで、その一部分がうたである。


 讃詞は、現状を讃美するのが本旨ではなくて、さうなつてくれゝばいゝといふことを、相手たるすぴりっとに言ひ聞かせる、すると精霊は、其発せられた詞章に責任を感ずる――客観的に言へば、言葉の威力によつて、相手をちやーむさせる――即ち、言葉に感染させることだ。


 讃詞は、従つて、国のことか、神か乃至は神に近い生活をするもの、譬へば領主などに関するものが多いのは当然である。国と言ひ、神といふのも、結局は一つで、土地の領主を讃めるといふことは、その土地の神を讃めるのと同じ効果と結果とを持つ。











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