2017年5月6日土曜日

奥六郡と奥七郡

「奥」という漢語の意味の、どの深みへと探るべきなのだろうか。元茨城キリスト教大学で教えていた安部元雄の「旅に出た八幡太郎」(崙書房、1978)は、県内外の八幡太郎伝説採取で知られ、人気のある一冊だが、ここに「奥」にひっかっかている安部の記述が興味深い。 

 「奥六郡」は、陸奥国中部に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。だ。八幡太郎源義家による後三年の役で、最終的に「奥六郡」は、安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る藤原清衡が滅亡までを支配する。
 
 「奥七郡」は、常陸国北部にあった多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡の総称。「新編常陸国誌」に出てきており、それは佐竹氏の初期の所領を指す。佐竹一族は、未開地を開墾しながら、開発型の領主となって支配を強めていくのだが、なぜ佐竹所領の奥常陸を奥七郡と呼んだのか、を安部は、次のように書いている。

 佐竹の領主層に脳裏には、
 前九年の役の、後三年の役の、
 従軍した際の、
 清原一族による奥七郡の在地支配形態があったとすれば、
 源義家を通して
 その支配形態を模倣したいという願望を持つのは当然だ。
 初期佐竹氏の呼称に、
 そのような願望を感じる。

東国豪族たちが、後三年の役ののちに各地で、
開発型の領主となっていく現象があちこちで、見られるのだそうだ。
陸奥の「奥六郡」には、何がしかの驚くべき先進性があったようなのだ。
呼称が、義光の常陸の奥七郡へと、飛び地のように、飛んでしまった理由も分かる気がする。

 昌義盛ナルニ及ニデ
 皆其ノ下風ニ従ヒテ
 奥七郡ノ郡務
 皆源氏ニ帰ス   (新編常陸国誌)

今わたくしの棲む、
此処もまた
奥七郡であろうということだ。
八幡太郎義家の陸奥守としての支配権行使の、
「名残」だと、
思わずにはいられない。










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