2017年4月20日木曜日

栗 原


 角川源義の短い論考「義経記の成立」(昭和62 全集2所収)は、義経記の「北国落」をしらべたものだが、わたくしども栗駒に残る佐竹血族のルーツを探るうえで、興味深い内容が書かれている。

 北国落は、山伏の姿に変装した義経主従一行が、奥州平泉の藤原秀衡を頼るべく、京を出立し、熊野権現の霊験によって、難関を次々超えていく史実と空想が織り交ぜられた物語だ。義経の流寓の果て、最後に、僧侶一千人がいたという天台宗奥州総本山の栗原寺(りつげんじ)に到着する。

 やがては頼朝の奥州征伐の交戦場ともなるのだが、義経はこの寺で、平泉から迎えに来るのを待ち、50人ほどの同寺僧兵を従えて、平泉に入っていく。それはまるで「蝦夷の王」のように。

 栗駒という地に千人を超える僧侶がいたのである。彼らは藤原と共にあり、その後、頼朝の奥州征伐で義経が殺され、藤原三代の滅亡を見届けた後、同じ栗駒町に義経と武蔵坊弁慶の胴塚を祀ることになる。判官森と弁慶森である。僧兵たちが、義経らの遺骸を引き取ったのではなかろうか。

 源氏同士の戦いとなった西金砂山合戦で敗走しながらも、その後頼朝へ加勢した佐竹血族はまもなく、旧所領の常陸国奥七郡を回復したうえ、全国各地に所領を得た。このときに散らばった佐竹血族が、各地に佐竹血族が繁栄している理由なのだが、栗駒中野にも所領を得た。栗原寺および判官森と同じ栗駒である。

 頼朝による計らいがあったのではと推察される。藤原氏と佐竹氏は縁戚関係を結んでおり、一度は、義経の対頼朝挙兵に呼応している。義経シンパ、寺門への監視が狙いである。吾妻鏡には義経死後、秀衡の臣下の大河次郎が自らを「義経」と号して、謀反を企て、栗原寺で死んだ。これもまた数々の義経伝説を生んでいった混乱の証のひとつであるのだろう。

 源氏は義光以降、天台宗総本山の三井園城寺を帰依していた。この寺院の内の新羅社で、義光は元服した。園城寺ーー熊野―ー栗原寺という密接なつながりをかいま見たのは、義経記での義経一行は、天台系熊野修験の霊場をたどるように、北国落をしていったことを知ったからだ。義経の背景にある、鞍馬の神々と、熊野の行法と、当時の宗教、あるいは力の源泉のありようも、調べねばならない。



















0 件のコメント:

コメントを投稿