2017年4月15日土曜日

山頭火


空花子さんという、
どこに住んで、どんな経歴を持つのか、
ほとんどわからない書家が、
わたくしのFBのともだちなのだが、
ある日、訥々とした自書の、種田山頭火の句をいくつか、挙げられたので、
しみじみと見入った。
アル中男の句が、すうっと、
心に入り込んでくるのだった。

一方で、
金子兜太の「種田山頭火--漂白の俳人」(1974)を読む。
収めている文は、94篇。
ほぼ1200字ごと、原稿用紙3枚でまとめている。
その執拗な姿勢は敬意だが、
共産主義者の俳人が、
社会の底辺で苦しむ、山頭火の姿を容赦なく書いた。
いかに駄目な人間かと、ひたすら打ち付ける。
日銀労組専従(日銀職員という意味ではない)だった
金子の属性は、共産主義者特有の憎悪だ。

金子の文からは、
空花子さんの書から得たもの、つまりは
山頭火が、喜びの中で自然から受け取っているもの、を
得ることは不可能だった。

 分け入っても分け入っても青い山

に、失格者の烙印を見る必要がどこにあるのか。

わたくしは、空花子さんの書から立ち現れた
山頭火の句のきらきらした姿を信じようと思う。
もちろんいつもではないが、
山頭火は、きらきらしている。
明るい。
でなければ、生前あれほど好かれない。
共産主義者の解釈は、要らない。
共産主義者は、詩も、日本という国も駄目にする。

山頭火が書いている。
 
 俳句は悲鳴ではない、むろん怒号でもない、嘆息でもない。
 むしろ、深呼吸である。
















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