2017年1月1日日曜日

抽斗の鍵

蠟梅黄葉

小川軽舟「魅了する詩型――現代俳句私論」(2004)を読む。
12回にわたって「俳句研究」に掲載した文をもとに、広げたものだ。
よく練られた考察が、わかりやすい文章で綴られている。
やはり、俳論を、どう展開すべきかという点から主に読む。

「作り手と読み手」の項。
作り手と読み手の関係の表現がふるっている。

 作られた俳句のイメージを、引き出しの中身とする。
 俳句は、その引き出しの鍵。
 読み手は、鍵を預かり、それを、読み手自身の引き出しを引こうとする。
 作り手のイメージがそのまま読み手に伝達されることではない。

わかりやすい比喩だ。

引き続き、イメージがどのように曲解、誤解、正解されていくかを書いている。
原石鼎「秋風や――」について、
小林恭二や虚子、山本健吉の理解の差異を丁寧に書いている。
それで、「作品は読み手ごとに完結する」と結論する。

さらに
「意味伝達からもっとも遠い働きが詩歌にはある」と前提したうえで、
「省略と連想の作用」について説明する。
その歴史的成果は、先鋭的成果は、新古今和歌集だとする。
俊成と定家によって、象徴詩の領域に踏み込んだ、と断言する。
ここで作り手と読み手の関係が提示される。
 
 俊成定家の理念を実現するには、読み手の高い水準が必要だった。
 散文的な意味を断ち、読み手の連想に期待し、
 歌の言葉に、素材に、象徴性を付与する。
 難解さは「達磨歌」と当時揶揄された。

ここから宗鑑を経て、芭蕉にいたってはじめて、
意味と理屈の優位から、言葉や素材の優位、へと舵が切られたと。
意味のつながりが緊密なら、連想の契機が消え、
余韻が損なわれていく、と。
結論はこうだ。

 俳句が意味内容の伝達を主とすれば、作られた時点で完成する。
 読み手がだれであろうと、内容は変わらない。
 連想と省略を主とする俳句は、そうではない。
 読み手に読まれて、読み手のイメージが成立しなければ、完結しない。

上記のように考察をしたあと、
坪内稔典の「俳人漱石」から子規と漱石の読み手と作り手の関係を書き、
最後に多田智満子と高橋睦郎の、同関係を採り上げて終わる。

このように分解してみると、
タイトルからしてやさしそうな内容と思われた項ではあったが、
省略と連想の作用、象徴性など本質的な考察が、
詩歌の歴史に沿って丁寧になされていて、
なんとも緻密な頭脳であることを示した。
油断できない俳論だ。かなわない。
わたくしは原石鼎のエピソードを少少知るにすぎなかった。
このほかのことは一切初見だった。
だが、
「省略と連想の作用」
「象徴」
「新古今の象徴性」などは
いずれも詩歌の大テーマだから、
これらをこなすだけでも、時間がほしい。

最後の多田智満子の遺句集成立の過程の描写は、
美しい文章だった。
多田の句の端正さにも驚かされた。
多田の詩、短歌にも要注目。

















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