2016年12月29日木曜日

恩田侑布子の俳論

ネコヤナギ紅葉


俳論は意識しているので、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を取った、
恩田侑布子の「余白の祭」(深夜叢書社)をテキストにした。
恩田が40ー50歳代の総合誌や結社誌に載せた評論、エッセイ50本以上を集めている。
俳論も取り合わせをすることで妙味が出るようだ。

たとえば「冬の位相」の項。
雪舟の冬の山水画に、蛇笏の句を展開するアイデア力に驚いた。
雪舟「冬景図」への緻密な解析を、
実に執拗に繰り返し、
恩田に言わせれば俳諧の祖とする荘子や
浄土宗の時間概念を織り交ぜた後、
飯田蛇笏の冬の句のいくつかを、
雪舟の冬の山水風景と絡ませていく。

 蛇笏の句は、丹田の力そのものだ。

と締めた。
蛇笏の冬の句が、雪舟山水を背景にきりりと立った。

高屋窓秋の句については、
自己放擲の美しさと自意識の弊を背景に、
自意識の過多にへの嫌悪、自意識を放擲した句の受容力を強調しつつ、
三島由紀夫の「豊穣の海」の最後の場面を象徴として取り上げて
高屋の句と重ねあわせた試みは見事だと感じた。
いわゆる近代的自我、自意識の弊は同書いたるところで書いている。
 
 ぼくは元来、自分がどうしたこうしたという句は、
 少しも好きではない。

という文中採用した高屋窓秋の言葉は、恩田がいつも感じていることなのだろう。
高屋窓秋の句が近代的自我から遠いのだ、と教えてくれた。
こうした取り合わせの手法は、句を浮かび上がらせるに有効だと思った。
しかしながら、
「二物衝撃」の手法だと、ドラマツルギーがない。
三段論法であったり、弁証法的止揚はないから、論とはいえないかも知れぬ。
俳的エッセイと位置づけるべきものかも知れぬ。
だとすれば、求めるものとはずれる。

一方で、恩田が実現したいと思う俳は、

 五七五の極小の詩形は、
 本来大きく豊かな世界を盛ることがふさわしい。

 宇宙の気と人間の息が火花を散らす。
 あるいはまぐあう。
 このとき一句の底が抜ける。 

 俳精神とは。
 後生大事におのれを抱え込まぬことだ。

などの言葉に表れている。
大きく豊かな世界とは、肥大した自意識を超えたところにある、宇宙の律動だと感じる。
それは季節の循環となってあらわれている。
深く観照したり、全身で感じるとっているものを
うまく言葉にできていないもどかしさも同時に、感じているようだ。
よい俳人はよい哲人であらねばならぬ。

自我にまみれた句がいやで仕方がない、と叫んでいる書だ。
きびしい文による、きびしい内容の書だ。
抒情とはつくづくと迂闊なものだと思わされた。
ただし、新聞文章を修業したものからすれば、
わかりやすさは必至。
力んではいけない。














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