2016年11月11日金曜日

金砂軍談写本


「吾妻鏡」に治承4年(1180)秋に記述される出来事は、
頼朝の金砂城攻めだ。4箇所。しかし、記述はわずかな文でしかない。

平安末期、平氏を滅ぼした後の源頼朝が、
奥州にあった源義経の反乱に応じようとした常陸国支配者佐竹氏を
西金砂山に攻めた史実を書いた「金砂軍談」の万延元年の写本が見つかった。
原本は茨城大学が所蔵している。
書いた人物は、旧水府村町田の修験道者。
佐竹側からの視点で描かれている。
頼朝勢を防いだ「一族」の氏姓が次々登場する。
それらのひとびとの多くは、常陸国の今に繋がる、血脈。
姓を持ち、名を持ち、
頼朝の血を血とも思わぬ残虐ぶりに抗した、
けなげな英雄的行為だと思える。
揚げてみる。

平賀冠者盛秀
酒出六郎義茂
酒出八郎助義
稲木右馬介義清
関帯刀昌成
老臣小野崎河内
大塚民部
松岡弥太郎
中條幸之助
野口但馬
大縄三郎
黒澤左近
小貫大蔵
関主馬
滝六郎
以下、金砂山に篭城し、鎌倉勢に抗したのは二万八千人。

これらの子孫が今も、消長あれど、常陸国ほかに生きているという事実に驚く。
神風のように、一度は鎌倉勢を打ち破った佐竹勢にとって、
金砂は聖地と呼んでかまわない。
金砂の加護だ。
守ったのは、「山王日吉権現」だという。
たとえば、

  無罪の佐竹氏を滅亡せんとは僻事
  殊に金砂は日吉山王の垂迹
  東国鎮護の霊山に千才(矛)を交え
  峰を穢し戦場屽岶(かんぱく)と成す大罪の狼藉なり
  神罰争か遁る可ん哉
  霊験成ると忽ち多聞天摩利支天仏体現じ
  大空を祈り給わば
  俄に悪風起こり
  四方黒雲靉(お)き稲妻震動
  雷雲雨は大龍降るが如く

という記述。
日吉山王の聖地に、
日吉権現とともに、
多聞天、摩利支天が、調伏のために仏体を現したのだ。

山王権現(さんのうごんげん)は、
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神。
天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
最澄は、天台山国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。

神風を吹かせた多聞天は、
持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神だ。

同じく摩利支天は太陽や月の光線を意味する。
陽炎(かげろう)を神格化した存在。
「隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有す」とか。
この特性から、武士の間には明確に「摩利支天信仰」があったらしい。
護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。
南朝の楠木正成は、兜の中に、摩利支天の小像を篭めていた伝えもある。

武は宗教とともにあった。
東国の、奥常陸の武士たちの強烈な精神生活を、
伺い知ることのできる貴重な伝書に違いない。





















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